日本の民家ー司馬遼太郎のまなざしその1
2017.4.22
司馬さんの作品を最初に読んだのは確か高校生の時でした。「坂の上の雲」と「竜馬がいく」を貪るように読んだのを記憶しています。以来司馬作品は100冊ちかく読んだでしょうか、
「私は大工修行をしたわけではないから、家屋の仕組みがよくわからないが。。」と前置きした上で、司馬さんは日本の民家建築に関する興味深い視点を小説や随筆の中で書いていますので、このブログで少し紹介したいと思います。
明治の頃の北海道開拓民の住居に関して、彼は以下のように書いています。
「(明治政府の無策により、)開拓団として北海道へ行った人の住宅建設は、開拓民自身の経済的負担に頼らざるを得なかった。そうすると(開拓団の人たちは)掘立て小屋をつくってしまう。旭川に残っている屯田兵舎で想像できるように、零下何十度という風がそのまま入って来るんです。そのために家の中で火をいぶし続けなければいけない。空気は濁る。結核も多くなります。依然として本州の生活スタイルを北海道開拓民も明治以降も続けていたということに、胸が痛む思いがします。(中略)例えば北海道に朝鮮式のオンドルが入るだけでもずいぶんちがうのですが、一度も入ったことがない。(政府による開拓民に向けた)暖房への指導がなかったということが大きいのです。政府が、文化人類学的にまわりをながめわたしたら、ウラジオストクにはペチカがある。朝鮮半島にはオンドルがある。すぐわかることです。ロシア人に来てもらえばできた。」(1983年 週刊朝日「街道をゆくー北海道、志の場所」より)
なぜ日本の周辺のロシアや朝鮮半島には優れた「暖房」のシステムがあったのに、明治政府はそれに学んで北海道開拓民のために暖かい家を作ろうとしなかったのか?
欧米には学ぶが周辺の国からは学ぼうとしない私たち日本人の嫌な一面を、司馬さんは明治開拓時代の北海道の民家を通して訴えたかったんだと思います。