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私はどうして那須の田舎に移住したか

2023.4.16


私こと青木真は39歳で東京を離れ那須の田舎に移住しました。きっかけ、動機は様々ですが、中学時代と社会人時代に経験した2つのカルチャーショックが大きく影響しています。それについて今回は書きます。


ドイツでの経験



ドイツのクラインガルテン、ドイツの労働者は週末郊外のクラインガルテンで過ごします。



一つは30代東京の会社員時代に留学でドイツで暮らした経験です。ドイツで目にした社会と人々の暮らしはとてもショッキングでした。政治、経済、文化が東京に集中する日本とは真逆で、ドイツは首都機能が人為的に分散されていました。過去に首都ベルリンへの一極集中の弊害を経験したドイツ人は人為的に首都機能を分散した歴史があります。政治は首都のボン(当時、東西統一後の首都はベルリン)、経済はフランクフルト、文化はミュンヘンといった具合です。1990年台当時、日本は欧米諸国に経済的にキャッチアップしたと言われてましたが、実はサーキットを一周遅れて追いついただけではないか、つまり首都一極集中の弊害、大災害をまだ日本は経験していないので、歴史的な社会形成が一段階遅れているだけではないか、そんことを感じました。首都ボン駅にはプラットフォームが2つしかありませんでした。宇都宮駅のプラットフォームより少ない!(笑)またドイツの住宅とライフスタイルも日本とは全く異色でした。住宅を自分達の手で直したり作ったりするのが当たり前で、私が住んでいたアパートもオーナーさんがD I Yで内装を作ったものでした。ドイツの労働者は月曜日から金曜日までは都会の工場で働き、週末は郊外に所有する農園付きの別荘「クラインガルテン」で農的な暮らしをエンジョイしていました。大学時代体育会フェンシング部に入っていたので、ドイツの地域コミュニティーのフェンシングクラブにも参加しましたが、そこでショックを受けたのは、大人のような自立心を持った子供、労働時間が短く地域コミュニティーを大事にする社会人たち。物が豊でも心が貧しい日本と、真から豊かな生活があるドイツ、人生観がガラッと変わった濃厚な半年間で、このカルチャーショックによって「東京に未来はない、田舎地方に移住すべし。」と考えるようになりました。


中学校時代に接した岐阜の先生、名古屋の先生


中学校2年生の時、父の転勤で岐阜の田舎から名古屋の都会へ転校しました。岐阜の田舎の中学校は2クラス、かたや転校先の名古屋の中学校は8クラス。岐阜の中学校では男子は全員丸坊主、名古屋の中学生は長髪も可。名古屋の中学にはテレビで見たことのある子役の子やアイドル芸能人もどきの美人さんもいたりと、何から何まで別世界でしたが、一番違ったのは先生、つまり大人です。多感で人格形成期にあたる中学生時代、接した大人の影響は小さくありません。岐阜の田舎の先生は今でもよく覚えています。英語の佐藤先生、理科の田口先生の家にはしょっちゅうお邪魔して晩飯を食べさせてもらったりしました。生徒ひとりひとりと真摯に正面から接してくれる先生ばかりで大好きでした。田舎の中学では生徒同士の喧嘩は日常でしたが、そんな時必ず先生が仲裁に入り喧嘩した生徒双方に罰で廊下にバケツを持たせて立たせたりと、人間味あふれる接し方をする先生ばかりでした。一方、名古屋では好きになった先生、尊敬する先生は一人もいませんでした。クラスでいじめがあっても見ないふりをする先生、あからさまなエコひいきをする先生、意味もなく暴力をふるう先生、極端に左翼思想に偏った授業をする先生などなどです。田舎と都会の生徒は見た目は違っても、中身はまだ子供、遊び好きで純真な面は都会の子も田舎の子も変わりないのです。が、大人、つまり先生があまりにも違いすぎた。自分はこれからそんな大人たちに囲まれた都会でずっと生きていけるのか、私は当時自問自答していました。岐阜の田舎での中学生生活があまりにも伸びやかで居心地が良かったので、その経験と思い出はその後、高校、大学、社会人と都会で暮らす中でいつも私の心の底に残像として残っていきました。



2000年に東京から那須へ移り住みセルフビルドで建てた私の自宅



私の那須移住と会社設立について語った記事はこちらから


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